ソロで気ままな行き当たりばっ旅 杵築城下町探訪編
- 2019/07/22
- 11:48
先週末は雨上がり宮迫&ロンブー亮の記者会見があり、吉本興業の闇が暴かれてしまいましたね(-_-;)
最初に軽率なウソをついた宮迫が全面的に悪いのは確かなのですが、本当に反社と知らずに直営業
したのならば、解雇までいくような案件では無いのも確かですし。。
吉本が触れられては困るような何かを隠してるとしか思えないですよ・・
まあ、今日中に吉本興業社長自らが会見を開く様ですので、きっちりと経緯を説明して頂きたいもんです。
しかし、まっちゃんより先に勇気あるツイートした陣内智則は漢を上げたなぁと思います(^_^;)
吉本の報復が無ければいいのですが・・・w
そんな事はさて置いて、とっとと本編スタートしますね^^
まずは無料で入れる能見邸から見学させて頂きます。
案内のお姉さんもいますよ^^

すごい立派です(^_^;)
家老クラスでしょうか?


かなり格式高い造りです。


こんな縁側で昼寝したいもんです(笑)
調べてみると、どうやら平成20年頃に大規模改修されてるようです。


お琴は引いてもいいみたいです^^
よー引かんけど

井戸もありました。
使えるかどうかは知りませんw

屋根裏も見学可能です。

倉庫になってましたよ(笑)
梁が立派ですな^^

釜はレプリカだそうですが、石を削って作られてる流し台は当時のモノらしい。
お姉さんが説明してくれました^^
能見邸を後にし、筆頭家老だった大原邸を見学いたしましょう。
こちらは有料(200円)です。
大原邸」は『居宅考(きょたくこう)』に、宝暦のころは相川東蔵(120石)
が住み、東蔵が知行返上後、中根斎(家老新知350石)、岡三郎左衛門を経て、桂花楼となったとあり、
御用屋敷桂花楼の場所であったと伝えられています。
「町役所日記」によると、天保3年(1832年)に大手広場にあった牡丹堂に桂花楼は移り、その後は
御用屋敷として続いていたようです。
明治元年(1868年)の絵図では、大原家の屋敷となっています。嘉永(1848年から1853年)の藩士帳に
みえる用人大原文蔵(200石)の屋敷地です。
大原家が、いつごろからこの屋敷に住んだかは不明ですが、文政(1818年から1830年)以降と思われます。
表に桁行八間半(15.46メートル)、梁行二間(3.64メートル)の堂々たる長屋門を設け、左手には
桁行四間半(8メートル18センチメートル)の建物が取り付いていたようです。
門から敷石伝いに真正面の式台玄関に達する。屋根は寄棟造茅葺とするが、入母屋造の屋根を
正面にみせた幅二間(3.64メートル)、奥行一間(1.82メートル)の式台を構え、当時の格式の高さを示しています。
式台玄関には、八畳の次の間から鉤の手に10畳(16.54平方メートル)の座敷に通じます。
これら接客部分裏の居住部分が完全に分離される点も他の家と異なります。
また、中島をもつ池は大きく、杵築の武家屋敷では最も整った庭園を有することも、当家が普通の
武家屋敷でなかったことを物語ります。
主屋は御殿の建物を移築したものと伝えられていますが、明らかではありません。
建築年代に関する資料に欠けますが、19世紀中ごろ以前のものか、あるいは桂花楼のものでないかと思われます。
一部を除いては旧状をよく留めており、屋根も残り少ない草葺で、風格をもち、庭園も立派で、
杵築における最も貴重な遺構の一つです。
城下町杵築の中核的施設として平成元年(1989年)から観覧のために一般開放され、
年間利用者数は約46,000名を数えます。<引用>

でで~んと立派な長屋門を構えてます。

長屋門内には馬小屋も。

玄関から客間の壁は赤茶の土壁、住居となる部屋は白壁と分けられています。
これだけとっても、格式の高さを感じますね^^





庭もかなり整備された感じです。
池もあります。


格式高いわ~(^_^;)
この庭で剣の稽古やら弓の稽古をしたそうです。
ちなみに弓の射る部屋の天井は一段高くなってありました。


調理場の近くに井戸が配置してあり、奉公人が食事の支度をしたりするのに便利だったのでしょうか。
当時、水は貴重で風呂は湯船などは無く、真水を布で湿らせ、身体を拭くスタイルだったようです。
ですが、町人たちは銭湯で暖かい湯船に浸かっていたそうな(^_^;)
武家の長である家老職の立場上、そんな甘ったるい事は出来なかったんだって。。
家族は大変だった事でしょうねw
真冬は死んじゃうで。マジで。
ちなみに「風呂敷」は風呂に布を敷いて足などを拭いていたことから付けられたそうです。


台所も広いですね(^_^;)
右手前の小窓の所が風呂場です。


主人は床の間を背にして、客人と会ってたりしたそうです。
床の間の奥行はちょうど刀の長さにしてあり、裏の部屋からの不意打ちを避ける為だとも言われてるそうです。
<豆>
自分ちでも警戒しないといけない時代だったんですね・・(^_^;)
まあ、セキュリティの無い時代ですからねw
我が腕だけが頼りですもん。。
そうそう、松坂桃李主演の「居眠り磐音(いわね)」のロケでも使われてましたね^^

景色もいいですね~^^
高台にあるので、町人街を見渡せます。


大原邸を出て少し街を歩きましょう。
酢屋の坂





見どころ満載の杵築・・・
当初の予定には無く、何気なしに寄ったのですが、めちゃくちゃ良かったです( ´¬`)ノ
この度のメインになったと言っても過言じゃないです(^_^;)
是非、みなさんも足を運んでほしい所ですね^^
つづく
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最初に軽率なウソをついた宮迫が全面的に悪いのは確かなのですが、本当に反社と知らずに直営業
したのならば、解雇までいくような案件では無いのも確かですし。。
吉本が触れられては困るような何かを隠してるとしか思えないですよ・・
まあ、今日中に吉本興業社長自らが会見を開く様ですので、きっちりと経緯を説明して頂きたいもんです。
しかし、まっちゃんより先に勇気あるツイートした陣内智則は漢を上げたなぁと思います(^_^;)
吉本の報復が無ければいいのですが・・・w
そんな事はさて置いて、とっとと本編スタートしますね^^
まずは無料で入れる能見邸から見学させて頂きます。
案内のお姉さんもいますよ^^

すごい立派です(^_^;)
家老クラスでしょうか?


かなり格式高い造りです。


こんな縁側で昼寝したいもんです(笑)
調べてみると、どうやら平成20年頃に大規模改修されてるようです。


お琴は引いてもいいみたいです^^
よー引かんけど

井戸もありました。
使えるかどうかは知りませんw

屋根裏も見学可能です。

倉庫になってましたよ(笑)
梁が立派ですな^^

釜はレプリカだそうですが、石を削って作られてる流し台は当時のモノらしい。
お姉さんが説明してくれました^^
能見邸を後にし、筆頭家老だった大原邸を見学いたしましょう。
こちらは有料(200円)です。
大原邸」は『居宅考(きょたくこう)』に、宝暦のころは相川東蔵(120石)
が住み、東蔵が知行返上後、中根斎(家老新知350石)、岡三郎左衛門を経て、桂花楼となったとあり、
御用屋敷桂花楼の場所であったと伝えられています。
「町役所日記」によると、天保3年(1832年)に大手広場にあった牡丹堂に桂花楼は移り、その後は
御用屋敷として続いていたようです。
明治元年(1868年)の絵図では、大原家の屋敷となっています。嘉永(1848年から1853年)の藩士帳に
みえる用人大原文蔵(200石)の屋敷地です。
大原家が、いつごろからこの屋敷に住んだかは不明ですが、文政(1818年から1830年)以降と思われます。
表に桁行八間半(15.46メートル)、梁行二間(3.64メートル)の堂々たる長屋門を設け、左手には
桁行四間半(8メートル18センチメートル)の建物が取り付いていたようです。
門から敷石伝いに真正面の式台玄関に達する。屋根は寄棟造茅葺とするが、入母屋造の屋根を
正面にみせた幅二間(3.64メートル)、奥行一間(1.82メートル)の式台を構え、当時の格式の高さを示しています。
式台玄関には、八畳の次の間から鉤の手に10畳(16.54平方メートル)の座敷に通じます。
これら接客部分裏の居住部分が完全に分離される点も他の家と異なります。
また、中島をもつ池は大きく、杵築の武家屋敷では最も整った庭園を有することも、当家が普通の
武家屋敷でなかったことを物語ります。
主屋は御殿の建物を移築したものと伝えられていますが、明らかではありません。
建築年代に関する資料に欠けますが、19世紀中ごろ以前のものか、あるいは桂花楼のものでないかと思われます。
一部を除いては旧状をよく留めており、屋根も残り少ない草葺で、風格をもち、庭園も立派で、
杵築における最も貴重な遺構の一つです。
城下町杵築の中核的施設として平成元年(1989年)から観覧のために一般開放され、
年間利用者数は約46,000名を数えます。<引用>

でで~んと立派な長屋門を構えてます。

長屋門内には馬小屋も。

玄関から客間の壁は赤茶の土壁、住居となる部屋は白壁と分けられています。
これだけとっても、格式の高さを感じますね^^





庭もかなり整備された感じです。
池もあります。


格式高いわ~(^_^;)
この庭で剣の稽古やら弓の稽古をしたそうです。
ちなみに弓の射る部屋の天井は一段高くなってありました。


調理場の近くに井戸が配置してあり、奉公人が食事の支度をしたりするのに便利だったのでしょうか。
当時、水は貴重で風呂は湯船などは無く、真水を布で湿らせ、身体を拭くスタイルだったようです。
ですが、町人たちは銭湯で暖かい湯船に浸かっていたそうな(^_^;)
武家の長である家老職の立場上、そんな甘ったるい事は出来なかったんだって。。
家族は大変だった事でしょうねw
真冬は死んじゃうで。マジで。
ちなみに「風呂敷」は風呂に布を敷いて足などを拭いていたことから付けられたそうです。


台所も広いですね(^_^;)
右手前の小窓の所が風呂場です。


主人は床の間を背にして、客人と会ってたりしたそうです。
床の間の奥行はちょうど刀の長さにしてあり、裏の部屋からの不意打ちを避ける為だとも言われてるそうです。
<豆>
自分ちでも警戒しないといけない時代だったんですね・・(^_^;)
まあ、セキュリティの無い時代ですからねw
我が腕だけが頼りですもん。。
そうそう、松坂桃李主演の「居眠り磐音(いわね)」のロケでも使われてましたね^^

景色もいいですね~^^
高台にあるので、町人街を見渡せます。


大原邸を出て少し街を歩きましょう。
酢屋の坂





見どころ満載の杵築・・・
当初の予定には無く、何気なしに寄ったのですが、めちゃくちゃ良かったです( ´¬`)ノ
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