ソロで気ままな行き当たりばっ旅 杵築城~武家屋敷見学編
- 2019/07/18
- 11:08
毎日ムシムシした日が続きますね(~_~;)
しかしそれも今週いっぱい程度か・・
来週には暑くてジメジメした日が。。。って、アカンやんw 今の方が涼しくてマシやん(~_~;)
最近になってまたまたジョグ&ウォーキングを始めました。
今度こそ三日坊主にならない様に頑張りたいと思います^^
で、昨夜は帰宅が遅くなり夜中の10時半くらいからスタートしたのですが、何やらライトを片手に
持って林の中をウロチョロしている怪しいおっさんが居ました。。
恐らく、昨年ニュースでやっていた「食用目的の蝉の幼虫採集」かと思います。。
昨年のニュースはコチラ
2日前は4人の若者が必死に採ってましたし。。
どうりで7月も後半なのに、例年よりもセミが少ない訳か。。
天気のせいかと思ってたよw
注意喚起の看板でも有れば直接注意するのですが、大泉緑地はまだ野放し状態ですw
さてさて。。そろそろ本題に。
前回の続きからです。
それでは杵築城天守内部に入らせて頂きましょう^^

1970年に建築された独立式望楼型3層3階の模擬天守です。
1393年(明徳4年)に木付頼直によって築城されたのですが、築城当時“木付”と命名されながら
幕府朱印状に誤って“杵築”と記されて以来「杵築」となってしまったとのエピソードが(笑)
また島津の猛攻撃に2か月も耐えたことから別名「勝山城」とも呼ばれているそうです。


当時の鎧兜がずらりと並んでます^^


天守自体はRC造の模擬天守なので、味気ないです。。
しかし、見晴らしは最高です♪


埋め立てられる前は半島の先にあったので、最高の景色だった事でしょうね^^

守江湾です。干潟の様になってますね。
アサリとかめっちゃ居てそう♪
ちょっと調べたら、カブトガニが生息してるそうですね。

おおいた遺産から引用
ちなみに登城記念状は有りませんでした(~_~;)
天守を満喫したので、ちょっと城下町を歩きましょうか。

模擬天守と言えど、遠くから見るとけっこう立派にそびえたってますね。
天守があるのと無いとでは大違いやね。


勘定場の坂
いよいよ武家屋敷群に。
杵築城下は坂の町である。天守閣=1970(昭和45)年再建=の立つ城山はじめ、武家屋敷の
並んでいた北台、南台はすべて坂の上である。元禄年間(1688年〜1704年)に豊後を旅した
福岡藩の儒者・貝原益軒は『豊国紀行』のなかで「木付の町は山と谷とに有りて坂多し」と書いている。
谷にあるのはその名も谷町筋という町人町だった。
城山を下って北台に登るのが勘定場の坂。北台へはほかに北からは番所の坂、射場の坂、
南の谷町筋からは酢屋の坂、紺屋町の坂、富坂など。一方、谷町から南台へは志保屋の坂、
飴屋の坂、天神坂など。谷町をはさんで、北と南の台地は坂によって有機的に結ばれている。
ところで、益軒が記しているように、杵築はかつて木付と書かれていた。
国東半島と内陸部をつなぐ海陸交通の要地をおさえていたのは古くから木付氏だった。
近世になって藩が成立したのち、松平氏の時代に幕府の朱印状に杵築と誤って書かれたのである。
藩では「間違っています」とは逆らえず、地名の方を変えた。益軒が訪れた時からおよそ20年後だった。
城郭のあった城山はかつて三方を海に囲まれていた。南の八坂川の岸に御船手長屋の跡、
北西のふもとに藩主御殿の跡がある。北台の武家屋敷街には重臣だった大原氏の邸宅などが
土塀を連ね、小学校には昔の藩校・学習館の門が残っている。
南台は道が升目に整然と通され、家老丁や松・竹・梅の小路など古くからの町名が残り、
新しく城下町資料館も建てられている。その西にある寺町には寺院が立ち並び、かつて城下の防備
に利用されていた。
サンドイッチされた谷間は谷町、仲町、新町、弓町。近年、道は広くされたが、新装の商店も城下
に似合う姿に復元されて人々を迎える。杵築城下は心温まるタイムスリップの町だ。<引用>


どこも立派な門構え。

能見邸は入場料無料です^^
ちょっと見学しましょう。

長くなってきたので、内部の紹介は次回にしましょう。。
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しかしそれも今週いっぱい程度か・・
来週には暑くてジメジメした日が。。。って、アカンやんw 今の方が涼しくてマシやん(~_~;)
最近になってまたまたジョグ&ウォーキングを始めました。
今度こそ三日坊主にならない様に頑張りたいと思います^^
で、昨夜は帰宅が遅くなり夜中の10時半くらいからスタートしたのですが、何やらライトを片手に
持って林の中をウロチョロしている怪しいおっさんが居ました。。
恐らく、昨年ニュースでやっていた「食用目的の蝉の幼虫採集」かと思います。。
昨年のニュースはコチラ
2日前は4人の若者が必死に採ってましたし。。
どうりで7月も後半なのに、例年よりもセミが少ない訳か。。
天気のせいかと思ってたよw
注意喚起の看板でも有れば直接注意するのですが、大泉緑地はまだ野放し状態ですw
さてさて。。そろそろ本題に。
前回の続きからです。
それでは杵築城天守内部に入らせて頂きましょう^^

1970年に建築された独立式望楼型3層3階の模擬天守です。
1393年(明徳4年)に木付頼直によって築城されたのですが、築城当時“木付”と命名されながら
幕府朱印状に誤って“杵築”と記されて以来「杵築」となってしまったとのエピソードが(笑)
また島津の猛攻撃に2か月も耐えたことから別名「勝山城」とも呼ばれているそうです。


当時の鎧兜がずらりと並んでます^^


天守自体はRC造の模擬天守なので、味気ないです。。
しかし、見晴らしは最高です♪


埋め立てられる前は半島の先にあったので、最高の景色だった事でしょうね^^

守江湾です。干潟の様になってますね。
アサリとかめっちゃ居てそう♪
ちょっと調べたら、カブトガニが生息してるそうですね。

おおいた遺産から引用
ちなみに登城記念状は有りませんでした(~_~;)
天守を満喫したので、ちょっと城下町を歩きましょうか。

模擬天守と言えど、遠くから見るとけっこう立派にそびえたってますね。
天守があるのと無いとでは大違いやね。


勘定場の坂
いよいよ武家屋敷群に。
杵築城下は坂の町である。天守閣=1970(昭和45)年再建=の立つ城山はじめ、武家屋敷の
並んでいた北台、南台はすべて坂の上である。元禄年間(1688年〜1704年)に豊後を旅した
福岡藩の儒者・貝原益軒は『豊国紀行』のなかで「木付の町は山と谷とに有りて坂多し」と書いている。
谷にあるのはその名も谷町筋という町人町だった。
城山を下って北台に登るのが勘定場の坂。北台へはほかに北からは番所の坂、射場の坂、
南の谷町筋からは酢屋の坂、紺屋町の坂、富坂など。一方、谷町から南台へは志保屋の坂、
飴屋の坂、天神坂など。谷町をはさんで、北と南の台地は坂によって有機的に結ばれている。
ところで、益軒が記しているように、杵築はかつて木付と書かれていた。
国東半島と内陸部をつなぐ海陸交通の要地をおさえていたのは古くから木付氏だった。
近世になって藩が成立したのち、松平氏の時代に幕府の朱印状に杵築と誤って書かれたのである。
藩では「間違っています」とは逆らえず、地名の方を変えた。益軒が訪れた時からおよそ20年後だった。
城郭のあった城山はかつて三方を海に囲まれていた。南の八坂川の岸に御船手長屋の跡、
北西のふもとに藩主御殿の跡がある。北台の武家屋敷街には重臣だった大原氏の邸宅などが
土塀を連ね、小学校には昔の藩校・学習館の門が残っている。
南台は道が升目に整然と通され、家老丁や松・竹・梅の小路など古くからの町名が残り、
新しく城下町資料館も建てられている。その西にある寺町には寺院が立ち並び、かつて城下の防備
に利用されていた。
サンドイッチされた谷間は谷町、仲町、新町、弓町。近年、道は広くされたが、新装の商店も城下
に似合う姿に復元されて人々を迎える。杵築城下は心温まるタイムスリップの町だ。<引用>


どこも立派な門構え。

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