ソロで気ままな行き当たりばっ旅 悲劇と杵築城登城編
- 2019/07/17
- 12:21
途中まで書いていたのに保存するのを忘れてページから離れてしまい、全部消えてしまって
意気消沈してます・・・
よくよく見てみると、投稿の設定で自動下書き保存機能がOFFになってましたわ(涙)
仕方ないので気を取り直して再度書いて行こうと思います( ´¬`)ノ
それでは前回の続きから・・
フェリー乗り場に移動してYouTube で動画を楽しんでたのですが、ふと、海の様子を見に行きたく
なりました。
もしかした、魚の大群がいたりするかも~^^
フェリー乗り場なので、岸壁に照明はあります。
明かりにつられた小魚を狙いに色んな魚が・・・
ワクワクドキドキ・・
よく目を凝らしてみると・・・
でっかいシーバス(スズキ)が3匹ほど悠々と泳いでまんがな!
こりゃ釣りあげたらネタになるな~( ´¬`)ノ
と、言う訳で・・

ちょっとやってみる事に~ヽ( ´¬`)ノ
しかし・・・
1時間程やってみましが、ウンともスンとも言いませんでした (T_T)
ダミダコリャ・・
さっさと諦めて車に戻ります。
竿が潮で濡れていたので、屋根のキャリアの上に載せて乾かします。
すでに夜中の1時を回ってますw

が、ちょっとだけ飲みます♪
動画を見ながらね~

そして就寝。。
ZZZZZ
翌朝は7時に起床 ヽ( ´¬`)ノ
道の駅に戻って顔と食器を洗わせて頂きます^^
この日は朝ごはん抜き。
目的地へと車を走らせます^^
お城シリーズ第3弾!
杵築城ですよ!
大分空港の前を通過した頃でしょうか・・・
思わず、あっ!!と声を出してしましました(゚O゚;;
そうです・・・
昨夜にタックルを屋根に置いたまんま走って来てますがな。。。(;゚;ω;゚;)
しかも、端っこにチョコンと載せただけなのです。
慌てて確認しましたが、時既に遅し。。
有るわけないよね。。
既に出発から2時間ほど経っているので、今更探しに戻る訳にも行かず・・
てか、踏まれてるか持って行かれてるかのどちらかでしょ(T_T)
きっぱり諦めて気持ちを切り替えて楽しむことにしましょう。。。(~_~;)
ちなみに竿とリールで計5万くらい。
杵築城に到着です^^

後から知ったのですが、ここは裏門みたいでした(~_~;)
西側に大きな登城口がありました
古図はこんな感じ

築(きつき)城は、大分県国東半島南部に位置する杵築市に築かれた城郭です。
大友氏二代親秀の六男親重は、慶長二年(1250)、鎌倉幕府から八坂郷木付荘に
封ぜられました。
親重は、地名の木付を姓とし、竹ノ尾の高台に城を築きました。
この竹ノ尾城が木付城の起源と言えます。木付氏四代頼直は、海と断崖に囲まれた
要害堅固な台地に城を移築しました。
応永元年(1394)に完成した城は、木付城と称されました。
天正十五年(1587)木付氏十六代鎮直の時代、豊後に侵入してきた島津軍の攻撃を
木付城も受けることになります。攻城軍を率いるのは猛将で知られる新納忠元。
しかし、要害堅固な木付城に籠った鎮直は2ヶ月間これを防ぎました。
そして、豊臣秀吉本隊の到着の知らせによって退却をはじめた島津軍を追撃し勝利を収めます。
しかし文禄二年(1593)、主君大友義統が朝鮮の役において秀吉の不興を買い改易されると、
義統に従っていた鎮直の息子統直は自刃し、その知らせを聞いた鎮直も追って自害し、
木付氏は滅亡しました。
その後、木付城の城主は前田玄以、杉原長房と替わり、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦当時は
細川忠興の支配下にありました。合戦に前後し、大友義統は所領回復の約束を受けて西軍側につき、
旧家臣を率いて豊後で兵を起こしました。そして木付城に攻撃を開始します。
しかし守城側は、中津城の黒田如水の援軍を受けてこれを退けました。
江戸時代に入り正保二年(1645)、松平(能見)英親が入封すると、松平氏が明治維新まで藩主を務めました。
なお、正徳二年(1712)、将軍下賜の朱印文に城名が誤って「杵築」と記されていたため、
幕府に伺いをたてた上で、木付を杵築と記すようになりました。
杵築城は、海に向かって突き出した台地の上に築かれました。
しかし江戸時代になると台地上では不便ということで、北側の麓に御殿など主要機能が
置かれるようになりました。(引用)
埋め立てられる前は半島のような感じだったのですね。

城下も見どころ満載です^^


門をくぐると二の丸です。
二の丸は城山公園となってます。
いよいよ本丸。

そびえたってますね^^
まあ、この天守閣はレプリカですが・・(~_~;)

鉄骨造の模擬天守ですが、なかなか立派です^^
入場料は大人300円。
せっかくですから入りましょう。
天守の内部は次回のお楽しみに~^^
つづく
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意気消沈してます・・・
よくよく見てみると、投稿の設定で自動下書き保存機能がOFFになってましたわ(涙)
仕方ないので気を取り直して再度書いて行こうと思います( ´¬`)ノ
それでは前回の続きから・・
フェリー乗り場に移動してYouTube で動画を楽しんでたのですが、ふと、海の様子を見に行きたく
なりました。
もしかした、魚の大群がいたりするかも~^^
フェリー乗り場なので、岸壁に照明はあります。
明かりにつられた小魚を狙いに色んな魚が・・・
ワクワクドキドキ・・
よく目を凝らしてみると・・・
でっかいシーバス(スズキ)が3匹ほど悠々と泳いでまんがな!
こりゃ釣りあげたらネタになるな~( ´¬`)ノ
と、言う訳で・・

ちょっとやってみる事に~ヽ( ´¬`)ノ
しかし・・・
1時間程やってみましが、ウンともスンとも言いませんでした (T_T)
ダミダコリャ・・
さっさと諦めて車に戻ります。
竿が潮で濡れていたので、屋根のキャリアの上に載せて乾かします。
すでに夜中の1時を回ってますw

が、ちょっとだけ飲みます♪
動画を見ながらね~

そして就寝。。
ZZZZZ
翌朝は7時に起床 ヽ( ´¬`)ノ
道の駅に戻って顔と食器を洗わせて頂きます^^
この日は朝ごはん抜き。
目的地へと車を走らせます^^
お城シリーズ第3弾!
杵築城ですよ!
大分空港の前を通過した頃でしょうか・・・
思わず、あっ!!と声を出してしましました(゚O゚;;
そうです・・・
昨夜にタックルを屋根に置いたまんま走って来てますがな。。。(;゚;ω;゚;)
しかも、端っこにチョコンと載せただけなのです。
慌てて確認しましたが、時既に遅し。。
有るわけないよね。。
既に出発から2時間ほど経っているので、今更探しに戻る訳にも行かず・・
てか、踏まれてるか持って行かれてるかのどちらかでしょ(T_T)
きっぱり諦めて気持ちを切り替えて楽しむことにしましょう。。。(~_~;)
ちなみに竿とリールで計5万くらい。
杵築城に到着です^^

後から知ったのですが、ここは裏門みたいでした(~_~;)
西側に大きな登城口がありました
古図はこんな感じ

築(きつき)城は、大分県国東半島南部に位置する杵築市に築かれた城郭です。
大友氏二代親秀の六男親重は、慶長二年(1250)、鎌倉幕府から八坂郷木付荘に
封ぜられました。
親重は、地名の木付を姓とし、竹ノ尾の高台に城を築きました。
この竹ノ尾城が木付城の起源と言えます。木付氏四代頼直は、海と断崖に囲まれた
要害堅固な台地に城を移築しました。
応永元年(1394)に完成した城は、木付城と称されました。
天正十五年(1587)木付氏十六代鎮直の時代、豊後に侵入してきた島津軍の攻撃を
木付城も受けることになります。攻城軍を率いるのは猛将で知られる新納忠元。
しかし、要害堅固な木付城に籠った鎮直は2ヶ月間これを防ぎました。
そして、豊臣秀吉本隊の到着の知らせによって退却をはじめた島津軍を追撃し勝利を収めます。
しかし文禄二年(1593)、主君大友義統が朝鮮の役において秀吉の不興を買い改易されると、
義統に従っていた鎮直の息子統直は自刃し、その知らせを聞いた鎮直も追って自害し、
木付氏は滅亡しました。
その後、木付城の城主は前田玄以、杉原長房と替わり、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦当時は
細川忠興の支配下にありました。合戦に前後し、大友義統は所領回復の約束を受けて西軍側につき、
旧家臣を率いて豊後で兵を起こしました。そして木付城に攻撃を開始します。
しかし守城側は、中津城の黒田如水の援軍を受けてこれを退けました。
江戸時代に入り正保二年(1645)、松平(能見)英親が入封すると、松平氏が明治維新まで藩主を務めました。
なお、正徳二年(1712)、将軍下賜の朱印文に城名が誤って「杵築」と記されていたため、
幕府に伺いをたてた上で、木付を杵築と記すようになりました。
杵築城は、海に向かって突き出した台地の上に築かれました。
しかし江戸時代になると台地上では不便ということで、北側の麓に御殿など主要機能が
置かれるようになりました。(引用)
埋め立てられる前は半島のような感じだったのですね。

城下も見どころ満載です^^


門をくぐると二の丸です。
二の丸は城山公園となってます。
いよいよ本丸。

そびえたってますね^^
まあ、この天守閣はレプリカですが・・(~_~;)

鉄骨造の模擬天守ですが、なかなか立派です^^
入場料は大人300円。
せっかくですから入りましょう。
天守の内部は次回のお楽しみに~^^
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